第12回
父は帰ってこなかった
あの時、日本はどう動き、どう変わったのか?
『皐月事変』以後の日本社会を語る時、我々はしばしば制度や統計の言葉を使う。
だが実際には、その変化はもっと小さな場所から始まっていた。
家庭である。
2027年当時、既に自衛隊は事実上の
「判断代行組織」と化していた。
- 港湾の荷役指示
- 地域への物資配分決定
- 電力配給の優先順位付け
しかし通信が途絶え、確認手段が消えた結果、それを「引き受けられる組織」として自衛隊が機能し始めた。
その結果、多くの隊員達は任務の長期化に見舞われ、当然、帰宅できなくなる。
後年、「接続維持初期運用期」と呼ばれる時代である。
だが当時、それはまだ"非常時対応"として扱われていた。
皆、いずれ終わると思っていたのである。
私は2028年秋、神戸港近郊で、隊員の家族に取材している。
そこでは、子供達が「父の仕事」を正確には理解していなかった。
- 父は何処にいるのか
- 父は何をしているのか
『皐月事変』直後は、帰宅できていた隊員も少なくなかった。
しかし燃料節約と即応体制の維持から、次第に基地宿舎で生活する者が増えていく。
大人達は、その事情を理解していた。
だが子供達には、その理由は分からない。
ただ、父が家へ帰ってこなくなった。
それだけが、子供達にとっての現実だった。
本紙取材メモには、当時七歳の少女の言葉が残っている。
「お父さんは、みんなに安心してもらう事をしてるんだって。」
その短い言葉を、私は今でも忘れられない。
重要なのは、この時代の隊員達が担っていた仕事は、至って平凡だった点である。
彼らが担っていたのは、現在のような危険な任務とは程遠い、もっと地味で、しかし社会にとって不可欠な仕事だった。
- 現在のように海上で武力衝突が続いていた訳でもない。
- 戦死者が日常的に報じられる時代でもない。
少なくとも、人々はまだそれを戦争とは思っていなかった。
しかし実際には、彼らの判断で港の荷物が動き、水が流れ、街の生活が続いていた。
彼らが担っていたのは、
社会を止めないための接続だったのである。
- 「この倉庫の荷物を、どこへ優先するか」の伝達
- 「この地区への配水を今日始めてよいか」の確認
本来は役所や企業の管理部門がやるべき判断を、確認手段がないという現実に直面し、彼らがそのまま引き受けていた。
だからこそ、社会はその長期化を受け入れてしまった。
当時の感覚であれば、もし起こっている事象が明確な紛争だったのなら、もっと強い拒絶も生まれていただろう。
だが2028年当時、人々は彼らの行動を「生活の決定を代わりにやってもらっている」としてしか見ていなかった。
ここに、後の接続維持軍成立の複雑さが存在する。
彼らは家族を守るために家を空けた。
そして残された家族もまた、「仕方がない」と言い聞かせながら、その役割を受け入れていった。
家庭もまた、社会を支える一部になっていたのである。
現在、一部研究者達は2027年以後の日本を「判断の依存構造」と表現する。
この言葉は、単に社会現象だけを意味しない。
家庭そのものが、「判断と安心を届ける者を送り出す」装置として、社会システムに組み込まれていったのである。
今振り返って本紙生活面の記録を読み返すと、2029年掲載の短い記事が残っている。
港湾地域の小学校で行われた作文展示会についての記事だった。
作文そのものは、ごく普通の入選作品として紹介されていた。
教師も保護者も、その文章を静かに見守っていた。
私だけが、その一文の重さに立ち止まってしまった。
その中に、ある児童の文章が引用されている。
「お父さんは、みんなが困っている時に助けてあげる仕事をしています。
早く帰ってきてほしいけど、みんなのためだから、しかたないと思います」
当時の私は、その文章を読んで強い違和感を覚えた。
子供が「しかたない」を覚え始めていた。
それは本当に、健全な社会だったのだろうか。
その問いは、今でも私の中に残っている。
本稿執筆にあたり、本紙生活面保存資料、2028〜2029年地域作文保存資料の提供を受けた。
ここに感謝を記したい。
武器を持った組織が、荷物の行き先を決める社会。
これは戦闘ではない。だが軍の行動様式だった。平時との境界はどこで引けるのか。