第15回
誰も開戦を宣言しなかった
あの時、日本はどう動き、どう変わったのか?
2028年以後、日本周辺海域でも断続的な武力衝突が発生していた。
一般に「網大戦前期武力衝突」と総称される事象である。
現在も続くこの紛争だが、興味深いのは、その"開戦日"が存在しない点である。
なぜ開戦日が存在しないのか。
理由は、極めて単純だった。
誰も戦争を始めようとしていなかったからである。
各国の立場は、ほぼ共通していた。
- 自国の船が、どこにいるかを確認したかった
- 相手の船が、何をしているかを確認したかった
- 港の状況を、自国の組織へ伝えたかった
互いに攻撃命令が出ていた訳ではない。
自国漁船を守る。
輸送船を確認する。
港湾へ入る船団を把握する。
それぞれが、自国の安全を維持するための通常任務だった。
問題は、その「通常」が、相手には異常に見えてしまった事である。
もちろん、無線による呼び掛けが機能していなかった訳ではない。
船名を名乗る事はできる。
目的地を答える事もできる。
警告に応答する事もできる。
だが、それだけでは足りなかった。
その船が本当に入港許可を得ているのか。
積荷の扱いは正当なのか。
航路変更の理由は記録と一致しているのか。
それらを確認する照合系が死んでいたのである。
つまり、声は届いていた。
しかし、その声だけでは「通してよい」という判断には届かなかった。
その結果、双方が最悪を想定しながら距離を詰めるしかなくなった。
そして、臨検へ発展することもしばしばであった。
本紙海運記録によれば、2028年夏以降も、日本近海では、
- 位置情報の相互確認ができない船舶同士の接触事案
- 識別信号の未照合による緊急回避
- 入港許可確認ができないまま接近した船と巡視船の衝突
などが続いていた。
しかし当時、多くは「事故」や「不明障害」として処理された。
実際には、どちらが先に接近したのか。
警告は届いていたのか。
識別信号は正常だったのか。
その全てを後から証明する事が難しかった。
だから行政上も外交上も、「事故」と整理する以外に方法がなかったのである。
なぜなら、
各国とも全面的な戦争を望んでいなかった
からである。
実際、この認識は現在でも大きく変わっていない。
しかし現場海域では、確認不能を前提とした対峙だけが積み重なっていった。
そして、その積み重ねが、後に「網大戦前期武力衝突」と呼ばれる時代を形作る事になる。
本紙保存の2028年秋海上警備記録には、こんな証言が残る。
「相手が何をしようとしているか分からない。」
「こっちの意図も伝わらない。」
「だから近づかれたら、最悪を想定するしかなかった」
ここに2028年以後の局地衝突の本質がある。
それは領土戦争でも資源戦争でもなかった。
「確認できない事によって生まれた緊張」の連鎖だった。
当事者たちは、目の前の船を守る行動を取っただけのはずだった。
私は2028年冬、輸送護衛隊を取材している。
- コンテナ
- 燃料ドラム
- 給水タンク
- 護衛艦
あの光景の奇妙さは、今でも強く記憶に残っている。
生活維持と軍事運用が、完全に同じ場面に入り込んでいた。
そして重要なのは、日本社会に戦争の狂気が存在したわけではない事だ。
むしろ逆である。
人々は単に
「未確認での運用を増やしたくない」
と考えていた。
だからこそ、海上での確認・識別能力の維持が国家最優先事項になっていく。
問題は、その「確認能力の維持」が、武装なしでは成立しなくなっていた点だった。
- 確認するために近づく
- 近づくには安全を確保しなければならない
- 安全確保には武装が要る
つまり武装が目的だったのではない。
確認を成立させる手段として、武装が必要になったのである。
その結果だけが、軍事化という形で社会に現れた。
この連鎖が、静かに軍事化を進めていった。
誰も開戦を宣言しなかった。
だが「確認できない海」は、確かに変わっていた。
そして日本社会もまた、自覚の薄いまま、武力で管理する国家へ変貌していったのである。
本稿執筆にあたり、本紙保存資料、2028〜2029年海上接続防護記録、東シナ海監視資料の提供を受けた。ここに感謝を記したい。
空でも、同じ問題は繰り返された。
「軌道の確認系が切れれば、また港も止まる」
確認できない事への恐怖は、再び社会を揺らし始める。